イントロダクション

p.150

[Why does it…]

言説がフィクションかノンフィクションであるかによって、私たちのそれに対する反応は変わる。私たちは過去について学ぶために歴史書historyを読むし、ニュースの連続殺人鬼について心配するが、大衆小説のサイコパスに対してはそうではない。シェイクスピアの歴史劇に対してはその歴史の歪曲を称賛するが、英国史の本に関してはそうではない。

[Furthermore, there are…]

また哲学の外においても、作品をフィクションとするかノンフィクションとするかの論争が存在する。

Edmund MorrisのDutchは、作者自身が虚構的な語り手としてレーガンを巡る事件を直接目撃する。BerendtのMidnight in the Garden of Good and Evilは、いくつかのシーンは作られ、また出来事の時系列を変更している。これらの作品はノンフィクションとして出版されたために、それらの細工deviceは批判された。

フィクションとノンフィクションの哲学的定義は、その理解や鑑賞のための両者の区別の意義を明らかにしなければならないだろう。

p.151

[Several recent theories…]

近年の研究ではフィクションを、受け手に特定の反応を促すprompt機能の側面から定義することがある。そのような理論は二つの要素を含む。

⑵については見解の相違があるものの、⑴については、何かをフィクションとして扱うとは、作品の内容に対してメイクビリーブあるいは想像という態度を取ることであるという共通了解がある(Walton, Currie, D. Davies, Lamarque & Olsen)。

[This way of approaching…]

このような[機能による]定義は、指示や真理などの意味論的観念に頼るフィクション理論の拒絶を反映している。確かにフィクションは現実の人や場所、出来事を含むし、ノンフィクションは無知や欺きなどによって偽の主張を行うことがある。しかしノンフィクションが偽であるからといってフィクションになるわけではない。

よって先の論者たちはフィクション・ノンフィクションの区別において、作者や話者の意図に訴える。つまり受け手がメイクビリーブするように意図していたらフィクションであり、信念を持つように意図していたらノンフィクションではないかというのだ。

<aside> 💡 ここでは⑵の話に踏み込んでいるということか

</aside>

[I do not think…]

しかし筆者は以上の理論に反対する。つまり、フィクションに特徴的(かつノンフィクションには見られない)であるような想像やメイクビリーブといったものは存在しないのではないか。